今現在、年齢が高くなると必然的に社会的な知識と未来に制限を掛けられてくるものだと思います。
幼稚園から小中学校と進み、今は連絡先も変わり、会えなくなった友人達。
昔予備校で、20代は人の波の中に結婚の話、30代はもう旅立ちの話が友人からの連絡先として、頂くものと聞きました。思春期というのは本当に呪われたもので、学生時代が楽しかったか否か、それは楽しいものと言えるのは必然的に、友人達に恵まれていたか否かというものに尽きると思います。
一時期ブームとなった、『リング』、『呪怨』シリーズでは、決まってその対象は幼い時に不幸な事件に巻き込まれてその妬みというより思いが、読者に訴えかける、そこら辺の因果が人気が出るというより、人間の成れの果てを見るということでヒットしたのではないでしょうか。
都会で育ったというより、小学校時代の友人で一緒に冬の日にアパートの屋上でラジコンの車で一緒に遊んだ友人。今は既に元気にしているかどうか、分からなくなりました。
アパートの屋上で雪の中に見る積雪と溶けかかった水たまり。何か悲しいカタルシスがあります。
それと共に大切な友人です。
年末に有楽町に行くと人は疎らで尚且つ開いているのは、コンビニエンスストアとゲームセンターとかです。
そこで、寒い季節の中そこは、まさにサイモンとガーファンクルの『ボクサー』の世界です。
その曲の中の、「ライラライ♬」の中で僕は、ニューヨークの郊外の人の疎らなバス停に寒さが厳しく、肩をすくめてバスから降り立つというのがよく似合うと感じます。
話がちょっと移るのですが、感受性というものが何かから、育まれるかというとそれは思春期の友人を大切に思ったり、尚且つそこからの人の喜怒哀楽が無ければ大人になって、感受性は本とか目上の人から伺わせて頂くものとなると思います。
僕は先ずその地点で、本当に多国籍の学生時代の友人達に感謝してもし切れません。
感謝とランドセルとゲシュタルトの世界です。
これがあったから、僕は大切なものを捨てる必要性が無かったと思います。
大切なものを捨てる必要性が無い人間は堕落することはあっても腐ることはない。人間のモチベーションと切っても離せないものだと思います。
偉そうな文になるかもしれないのですが、ここは必須ではないでしょうか。