お久しぶりです。
今回は前回の『バセドウ病発症編』の続きで、『救急車搬送編』の記事を綴ろうと思います。
バセドウ病という病名が付けられてからは、自宅で過ごす日々が続きました。
数値が落ち着くまでは、基本的にはこれまでの活動は全て控え安静にしていなければなりませんでした。
大学生だったため出席や単位のことを考えると「休学」が頭をよぎりました、、この時は幸いにも友人のファインプレーによって一応出席をしていることになり、学校の心配をしないで体を休めることに専念しました。
バセドウ病は、あのへんてこな名前の治療薬が体に適合してくれたため、日に日に薬の量が減っていき、体全体が楽になり落ちついていきました。
そして期末試験だけは絶対に受けなければ単位を落とすことになるので、仕方なく大学に向かいました。
しかし、電車で約1時間弱の通学をしていたあの日、また体が異常反応を起こしました。
本当の意味での日常が奪われたのは、もしかすると「この日」であったと言えるでしょう。
私は大学に行くまでに3回乗り換えをするのですが、その3本目の電車に乗り、扉が閉まった後に体に異常を感じました。
それは、バセドウ病と気付かず薬も飲んでいなかった時の状態にとても似ていました。
普通に電車に座っていても心臓の音が聞こえるほどに、心拍数が速くなり、息をするのが苦しくなりました。
その時私は、レポートや試験などが重なり、体に負荷がかかり、また甲状腺の数値が悪くなったのかなと思いました。
ですが、その苦しさは次第に
「このままだと、死ぬんじゃないか」と思うほどに息苦しくなったのです。
そこからの記憶はあまりないのですが、大学の最寄りの2つ前の駅で下車し駅員さんに助けを求め、救急車を待っていました。
何が起こったかわからぬまま、大きな総合病院に搬送された私は、すぐに採血され、数値に異常がないかを確認されました。
結果としては、
「甲状腺の数値は何も変わっておらず、貧血気味である」とのことでした。
家に帰ってからも
「あれは一体何だったのか?」
原因が甲状腺の異常でなかったからこそ、自分自身を信じることが出来なくなりました。
そして、色んなことを疑い始めることになってしまいました。
その時感じた
「死ぬかもしれない」という突然の経験は、当然目隠しをされたように、漠然とした把握できない恐怖が常に頭のどこかにあるような
誰かに脳みそを支配されたような感覚を私自身に植え付けることになりました。
『救急車搬送編』おわり
次回『パニック障害発症編』へ続く…